明治28年 |
仲宗根正侑先生、那覇市泊で出生される。 |
明治40年 |
仲宗根正侑先生、この頃より、松茂良興佐、伊波興達、真栄田義任、仲里睦弼らに師事される。 |
大正 8年 |
福地清幸先生、那覇市西新町で出生される。 |
昭和 8年 |
福地先生、宮城長順先生の高弟である比嘉世幸先生に師事される。この頃、仲宗根正侑先生は、比嘉世幸先生のところで交換稽古を行っていた。 |
昭和15年 |
渡嘉敷唯賢先生、那覇市で出生される。 |
昭和20年代中頃 |
渡嘉敷唯賢先生、仲宗根正侑先生に師事される。 |
昭和31年 |
渡嘉敷唯賢先生、福地清幸先生に師事される。 |
昭和36年 |
仲宗根正侑先生、第1回沖縄古武道大会で泊手を演武し、「泊手の錠(サーシ)の鍵(クワ)は私が握っている」と泊手継承を宣言する。 |
昭和39年 |
福地清幸先生、那覇市東町に沖縄空手道剛柔流専武館福地道場を開設される。 |
昭和41年 |
福地先生の師であり、仲宗根正侑先生とも親交が厚かった比嘉世幸先生逝去。 |
昭和42年 |
全沖縄空手道連盟発足、福地清幸先生は全沖縄空手道連盟理事に選任される。専武館福地道場、東町より那覇市神里原に移転する。福地清幸先生、教士号を授与される。渡嘉敷唯賢先生、仲宗根正侑先生より師範免許を允許される。 |
昭和44年 |
日本武道館で初の特別模範演武「沖縄公開の夕べ」が行われ福地先生、渡嘉敷唯賢先生が演武される。 |
昭和45年 |
渡嘉敷唯賢先生、那覇市楚辺に専武館渡嘉敷道場を開設される。
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昭和47年 |
福地清幸先生、全沖縄空手道連盟理事長に選任される。 |
昭和48年
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金城嘉孝先生、カナダ、アルバータ洲レスブリッジに専武館カナダ支部を開設される。剛柔流開祖宮城長順先生20年祭が開催される。 |
昭和50年 |
福地清幸先生、全沖縄空手道連盟副会長に、渡嘉敷唯賢先生、同理事に選任される。7月18日、福地清幸先生逝去。渡嘉敷唯賢先生、二代目専武会会長に就任される。 |
昭和51年 |
渡嘉敷唯賢先生、仲宗根正侑先生より「泊松茂良派正心会館」を継承される。 |
昭和56年 |
渡嘉敷唯賢先生、全沖縄空手道連盟理事長に選任される。福地勲先生、専武館福地道場を引き継がれる。 |
昭和57年 |
渡嘉敷唯賢先生、仲宗根正侑先生より範士称号を授与される。沖縄空手道剛柔流専武会を、剛柔流と泊手を合わせた新しい流派として「沖縄剛柔流、泊手空手道振興会(剛泊会)」に改称される。剛泊会は、全沖縄空手道連盟理事会にて新しい流派として承認される。 |
昭和58年 |
剛泊会関東地区本部が開設。4月20日、仲宗根正侑先生逝去。剛泊会沖銀支部道場(上里一雄館長)が全沖縄空手道連盟理事会において加盟承認される。 |
昭和59年 |
第1回幹部研修会が開催される、以降定期的に開催されている。城間輝和先生、那覇市古波蔵に剛泊会城間道場を開設される。幸喜純成先生、那覇市首里大名町に剛泊会幸喜道場を開設される。 |
昭和61年 |
沖縄剛柔流・泊手空手道協会に名称を変更する。沖縄伝統空手道研究会本部を創設する。上江洲肇先生、那覇市壺川に剛泊会上江洲道場を開設される。渡嘉敷唯賢先生、沖縄剛泊会空手道―20年のあゆみ―を発刊し、各方面より好評を博した。 |
昭和62年 |
年刊誌「ごうはく」を発刊、以降定期に発刊されている。第1回中国武術調査訪問を行う、以降熱心に訪問調査を続けている。 |
平成 2年 |
中国福建省にルールーコー師顕彰碑を建立する。 |
平成 6年 |
渡嘉敷唯賢先生、沖縄県教育長「空手歴史調査員」に委嘱される。渡嘉敷唯賢先生、沖縄県空手道連合会常任理事に選任される。 |
平成 7年 |
渡嘉敷唯賢先生、沖縄空手秘伝「武備志新釈」―現代語訳と技法の研究―を発刊される。 |
平成10年 |
剛泊会東海地区本部が開設 |
平成11年 |
渡嘉敷唯賢先生、中国福建省武術協会鳴鶴拳研究会委員となる。第1回沖縄空手道古武道世界大会に参加する。 |
平成12年 |
顕彰碑建立10周年記念式典が開催される。 |
平成15年 |
カナダ本部道場30周年記念大会が開催される。第2回沖縄空手道古武道世界大会に参加する。 |
平成16年 |
沖縄県東風平町に研修道場を開設される。 |